ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)
第百五十九話:「秋の暮:秋の夕暮れか、秋の末か」
2024/11/01
「秋の暮」という言葉は、要するに雅語であって、余り生活的な根拠がないとされますが、 本来「暮」には、時節の末期を意味する“大暮”と日の暮れを意味する“小暮”という 二つの使い分けがあるそうです。 文学史家によりますと、平安時代の用法では、秋の暮は大暮の意で、小暮の方は秋の夕暮れ、 秋の夕べなどと使い分けていたそうです。 確かに清少納言は、枕草子で“秋は夕暮れ”と書いております。 意味の混乱は、時代を経て、その後の詩人、文人たちの曖昧模糊とした気分尊重の表現から、 “もののあわれ”や”寂しさ“が”秋の暮=秋の夕暮れ“の意味に通じるようになっていったとも考えられます。 何かの書き物で読んだ記憶なので、正確ではないかもしれませんが、松尾芭蕉の「この道や行く人なしに 秋の暮」の句の解釈を巡って、文人同士の論争があったようです。 小説家の大岡昇平は”秋の夕暮れ“の意味に取ったのに対し、詩人の三好達治が ”暮秋“が正しい解釈だと反論し、どうもこの論争では、三好氏が勝ち、 大岡氏が敗北を受け入れたとのことでした。 尚、松尾芭蕉の場合、暮秋と解していたのではないかという解説があり、 その根拠は作句の日付を持っている句の方が、日付不明の句より多いのだそうです。 死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 松尾芭蕉 枯れ枝に烏のとまりたるや秋の暮 松尾芭蕉 寝て起きて又寝て見ても秋の暮 服部嵐雪 尤も、森川許六や後の高浜虚子らは、”秋の暮“を、”秋の夕間暮れ“だとか、 ”秋の夕方の義“と定めて置くと、書き残しておりますので、俳諧の世界では大岡氏の肩を 持つお方も多いように思われます。 下記の句は、おそらく「秋の夕暮れ」を意味する方が順当と考えますが、 同じ秋でもこちらの方は中秋のイメージが強いと思われます。 童部の独り泣き出て秋のくれ 森川許六 日のくれと子供が言ひて秋の暮 高浜虚子 鳥さしの西へ過ぎけり秋のくれ 与謝蕪村 鐘の音物にまぎれぬ秋の暮 杉山杉風 秋の暮山脈いづこへか帰る 山口誓子 最後に「秋の末」「暮の秋」「秋暮る」と、明らかに、“暮秋・晩秋”を詠じた句を如何に紹介しておきます。 髭風を吹いて暮秋歎ずるは誰が子ぞ 松尾芭蕉 松風や軒をめぐって秋暮れぬ 松葉芭蕉 跡かくす師の行方や暮れの秋 与謝蕪村 暮れてゆく秋や三つ葉の萩の色 宮城凡兆 勾当の身を泣く宿や暮の秋 高井几董 病妻の閨に灯ともし暮るる秋 夏目漱石 |
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