ケン幸田の世事・雑学閑談(千思万考)
第八十八話: 「山開きと富士講・富士塚」
2018/06/09
古来、日本の農耕生活者は山の神が一定の期間、里に降りて田の神になると信じていたので、
霊山に対する信仰には篤いものがあり、山開きと言えば雪で荒れた登山道や山小屋を整え、
山の神を祭って登山者の安全を祈り、禁を解いてその年に初めて山登りを許した第一日目のことで、
御戸開、開山祭などともいわれます。
旧暦六月一日は富士山の山開き・富士参りの日(現在は吉田口が七月一日で、
登山口により七月十日も)ですが、各地各山それぞれによって毎年開山日が指定され、
上高地のウェストン祭りは、六月の第一日曜日、谷川岳は七月の第一日曜日、
十勝岳は六月17日などとなっております。
 
お山開きし甲州街道となりにけり 富安 風生
伴れ犬にいつかつく犬山開き 中村草田男
山開きたる雲中にこころざす 上田五千石
 
江戸時代の富士登山のキーワードは「富士講」と呼ばれた富士信仰グループのことで
「富士山へ登り祈る会」といった組織でした。現実的には、「講」所属全員がおそろいで登山する訳でなく、代表者を選出して「代参」と言うやり方を取り、護符を貰ってきてもらう事としていました。
江戸からの往復費用も馬鹿にならなかったので、道中費用に充てるため講で積み立てて負担したようです。
他にも「伊勢講」や「大山講」などが知られていますが、いずれも聖地巡礼、信仰の旅であり、
楽しみの旅でもあったのです。
中でも富士講は「八百八講」とわれるほど数が増え、人気の的でした。
富士詣は、山開きから20日間の登山期に、白衣・鈴・金剛杖の姿で、道中御師や社家の家に泊まり、
富士権現の奥の院を目指しました。
 
富士行者白衣に雲の匂ひあり 正岡 子規
焼土にずりこむ杖や富士詣 赤木 格堂
須走りの夕日となりぬ富士詣 飯田 蛇笏
 
富士登山の代参に選ばれなかった庶民が、近場で富士詣をしたのが「富士塚」で、
それは、いわばミニチュア版の人造富士山でした。
江戸には大小いくつも作られ、場所は神社や寺の境内が多く選ばれ、小高い丘や盛り上がった
古墳を利用したものもあり、岩石を積み上げ土砂を用いて富士山を模した小山を造りました。
富士講代参者の土産は必ず富士山の溶岩を持ち帰り、これを富士塚に収めたことが、
重要なポイントとなり、高齢者、婦女子、病弱者なども気軽に富士詣が出来たということは、
江戸人の極めて合理的な感性に敬服せざるを得ません。
身分や年齢,性差別を否定し、ある種のレジャー的要素も加味した庶民感情のはけ口が
富士信仰ブームを齎したのでした。
中でも、台東区下谷にある「下谷坂本富士」は、今も東京名所の富士塚として残っており
お山開きの日に、一般に開放されます。
 
 
 
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