1.映画になった尾崎秀実(おざき・ほつみ:秀實)のスパイゾルゲ事件 2.拡がる経済格差、身分格差こそが太平洋戦争に繋がった 3.映画「スパイゾルゲ」とは 4.尾崎が青春を費やしたのは列強が利権漁りに励む上海 5.尾崎秀実の思想の原点は氏(うじ:係累) 6.エスタブリッシュメントの最高峰は細川護貞侯爵 7.支那問題専門家の内閣顧問としての尾崎秀実 8.尾崎とエスタブリッシュメントの交友 9・拡がる格差と若者の挫折感
(文中は秀實を秀実とさせていただきます)
1.映画になった尾崎秀実(おざき・ほつみ:秀實)のスパイゾルゲ事件 毎年夏が近づくと太平洋戦争を題材にした映画が封切られる。 今年(2013年)はアニメではあったが、三菱名古屋航空機の設計家堀越二郎のラブストーリー。 フィクションとはいえ技師が道化にされているようで後味は良くなかった。 出来栄えを比較するわけではないが、10年前(2003年6月)には「スパイゾルゲ」という 秀逸な劇場映画が話題となった。 映画は第二次世界大戦前夜の騒然とした日本や中国上海を背景として、 リヒャルト・ゾルゲ(1895年-1944年:Richard Sorge:ソ連国籍のドイツ人新聞記者)や 尾崎秀実(1901年-1944年:朝日新聞記者、満鉄調査部、近衛内閣支那問題顧問)が 何故スパイとして逮捕、死刑になったかを描いている。 ゾルゲの墓は尾崎に較べ整備が行き届いている. ロシア国の支援も?内縁の女性をはじめ関係者の記念碑となっている。 ラストミニッツでソ連に裏切られた日本人には複雑な思い.(東京都多磨霊園) xxxxxxxxxxxxxxx
2.拡がる経済格差、身分格差こそが太平洋戦争に繋がった 映画のスパイゾルゲ事件は満州事変から支那事変など太平洋戦争に突き進む戦時下の 若者の苦悩と思想を掘り下げた傑作だった。 昭和初めの世界恐慌以来、先進国では労働者、学生など貧しい若者層に 赤化運動が広まっていた。 日本では形こそやや異なっていたが、 拡がる経済格差、身分格差こそ太平洋戦争に繋がったといえる。 「親日ジョゼフ・グルー駐日米国大使の孤軍奮闘 太平洋戦争回避には米国政権実力者と私的な交際ができる人材が必要だった」 http://www.botanical.jp/library_view.php?library_num=137 1930年代から太平洋戦争開戦の1940年までの外交といえば 中国大陸を巡る支那とロシア。 同じく大陸に利権を持つ英米との交渉(外交)がほとんど。 過激な軍部との調整に腐心したのが3度の組閣をした近衛文麿公爵。 天皇との太いパイプを期待されていたが軍部との調整は困難を極めた。 尾崎秀美は支那情報通を買われて近衛内閣支那問題顧問となっていた。 3. 映画「スパイゾルゲ」とは 映画は昭和初期から昭和10年代が舞台となっている。 昭和2年(1927年)の世界恐慌以来、閉塞感に陥った経済の再生拡大を目指す 政財界、官界は中国、東南アジアに活路を期待する。 軍事力で中国の地方軍閥を後押しして、大陸侵攻を果たそうとする日本には、 中国共産党や他の地方軍閥などの抵抗が根強い。 大陸に租界を持ち、利害関係の深い西欧も日本を侵略国として非難する。 語学下手で自己主張もできない日本人指導者層。 国際的に孤立していく日本。 アジアの利権漁りで腐敗していく政財界は、自浄能力を失っており、 憂国の青年将校らによる5.15や2.26事件が引き起こされる。 尾崎らの漏らしたとされる日本の対ソ政策の機密は大東亜戦争の成否、 ないしは、ソ連と戦うドイツの運命を決したといわれるほど重大なものだった。
写真中央は蒋介石.(1936年) この川越茂駐支大使(向かって右)との会談が 日本人との最後の会談といわれている. 以後泥沼の支那大陸戦が始まる.
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4. 尾崎が青春を費やしたのは列強が利権漁りに励む上海 10数年間の歴史とはいえ、複雑な背景を持つ世界規模の動乱の時代を 短時間の映画にまとめるのは至難であったろうが監督、脚本の言わんとすることは 伝わってくる。 映画は主役の一人である尾崎が、対価を期待して売国を図る、単なるスパイではなく、 反体制思想家であったと解釈し、その活躍した時代背景を描いている。
いまだ諸説が交差する尾崎の思想と国際共産党員(コミンテルン)としての役割を 断じることは危険であり、本文で論ずることが目的ではないが、映画では2.26事件や、 租界を持つ列強が利権漁りに励む上海(尾崎が朝日新聞記者として赴任していた)などを 尾崎の思想の原点として説明している。 また人種差別が露骨であった米国への反発思想を持っていただろう 宮城与徳(沖縄出身:米国帰りの画家。昭和18年獄死)が事件に連座した 共産主義者として登場するが、渡米経験のある尾崎が、その思想に 共鳴していただろうことも推測できる。
尾崎の墓は荒れ放題.家族は隠遁し、私的な友人もほとんどが亡くなっているのだろう. 夏は百合の花があちらこちらに.(東京都多磨霊園)
5. 尾崎秀実の思想の原点は氏(うじ:係累) 筆者しらす・さぶろうは尾崎秀実の思想形成に決定的なインパクトを与えたのは、 近衛文麿の秘書グループとその友人たちの氏(うじ)ではないかと考えている。
近衛文麿公爵 牛場友彦を筆頭とする西園寺公一(1906生.祖父、西園寺公望公爵。父、八郎)、 細川護貞侯爵等は首相の近衛文麿公爵ほどではないが、 いずれも日本を代表する公爵、侯爵の最上層階級。 牛場と西園寺はオックスフォード大学に留学したが、彼らの仲間には ケンブリッジ大学出身者を含めた オクスブリッジ(Oxbridge)と呼ばれた英国留学生が多数存在した。 医学や絵画、音楽など技術系を除けば、この時代の留学生のほとんどは、 日本を牛耳る財界の大物達や華族の子弟。 また、動乱の最中に組閣を引き受けた近衛文麿公爵(1891-1945)は五摂家筆頭の公家。 まさに貴族の中の貴族。 近衛公爵は軍部に理解があり、彼らも一目をおいていた。 天皇と接触が可能な、数少ない人材として近衛は三度、首相として登板。 その近衛の周辺にはオクスブリッジの他、 米国外交家ジョゼフ・グルー(当時駐日大使、帰国して国務次官)令嬢を囲む 社交界のメンバー、天皇につながる華族を中心とするグループなど、 維新以来、日本の近代化に貢献してきたエスタブリッシュメントや、 その子弟が多数存在していたが、どの氏(うじ)、係累とも尾崎は無縁だった。 6. エスタブリッシュメントの最高峰は細川護貞侯爵 「スパイゾルゲ」では近衛の秘書官として西園寺と共に牛場友彦が登場しているが、 なぜか秘書官グループとして細川護貞侯爵が登場していない。 政策秘書とも言える牛場、尾崎、西園寺と異なって、近衛の娘婿細川は、 近衛と宮家、近衛の支援者や友人を繋ぐ総務秘書の役割を担っていた。 近衛公爵が公家を代表する貴族なら、細川公爵は、外様とはいえ、大大名出身の貴族。 それ故、近衛、細川は、日本を代表するトップエリート達に華やかに囲まれていたが、 尾崎には細川を訪ねる近衛の支援者や友人たちが「腐敗しているブルジョワジー」としか 映っていなかったのではないだろうか。
「牛場友彦氏は実業家で衆議院議員の牛場卓蔵氏長男。二男は外務次官、米国大使などを 務めた牛場信彦氏。 家系は松方正義氏に繋がる。 牛場友彦氏(1901-1993)の戦後は国策会社アラスカパルプ副社長.」 「細川護貞氏は、熊本54万石、細川家第13代当主である護立侯爵(1884―1965)の長男。 母は池田詮政侯爵の女子池田博子(1889-1967)。 近衛文麿公爵の長女温子と結婚。護貞の長男が護熙:1938(元首相) 次男が護輝:1939(現近衛忠輝。日本赤十字社社長: 文麿氏長男近衛文隆、正子家を継承、三笠宮寧子と結婚) 護貞氏は夫人の死後、松井薫子氏(父:松井明之)と再婚し、千宗左氏と結婚した明子を授かる」 7. 支那問題専門家の内閣顧問としての尾崎秀実 尾崎は昭和研究会(主として近衛内閣の対外問題を論議する、 外交官、学者グループの勉強会)の面々や 同級生の牛場に乞われ、支那問題の専門家として内閣顧問に加わった。 尾崎が近衛の顧問になったのはスパイ目的という説も多いが筆者はそうは思わない。 一高、東大出身のエリートである尾崎と、近衛秘書の牛場、 岸道三(1899生、経済同友会代表幹事、戦後作られた日本道路公団初の総裁になった) とは、学生時代から親しい同級生。 共通したリベラルな感性を持って、仲間として認め合っていたからこそ、 顧問を引き受けたと考えられる。 いずれにせよ、国家への重大な裏切りの事実は残るが、今日では尾崎の真意を探ることは難しい。 当時の日本国民は海外情報に疎く、真の国力は知る由もなかったが、 外国語を解し、国際事情に精通していた彼らは当然のことながら欧米との、 勝てるはずの無い戦には反対。 また同時に、欧米人が差別感情の激しい、白人優先主義であり、 日本を蔑視する連中が多いことも熟知していた。 軍縮会議や中国問題における欧米諸国の利己的な横暴には、近衛を始め、 牛場や尾崎らが、大いに反発していたといわれる。 8. 尾崎とエスタブリッシュメントの交友 尾崎は牛場たちとリベラルな考え方で投合し、学生時代からの親友だった。 しかしながら軽井沢、保土ヶ谷、藤沢、東京倶楽部等でゴルフ社交に興ずる、 近衛公爵の子息文隆(写真下)や牛場、西園寺、細川など真のエスタブシュメントとは本来異質。 このあたりに尾崎が屈折した思想に傾斜していく原点があったとしてもおかしくはない。 近衛文麿公爵の長男文隆氏. 柳沢保承伯爵夫人(鍋島直大家) 近衛文隆氏の写真の裏には「コノエのポチ」と書かれている.ボチは文隆氏の愛称. シベリアに抑留され帰ることがなかった. 鍋島直泰侯爵 加賀の前田侯爵夫人. 細川護貞侯爵 令妹 鍋島直泰侯爵は細川護貞氏、近衛文隆氏、牛場友彦氏、尾崎秀実氏らの友人で同年輩. 日本の名ゴルファーとして知られる。病弱で仲間より早逝(1981年)した。 広大な細川護貞侯爵別邸は軽井沢旧ゴルフコースに面している.
もっと推測を拡大化してみれば、学生時代か、結婚前の記者時代に 尾崎が牛場ら仲間の姉妹、友人達と恋をした可能性も否定できないだろう。 「尾崎です」と紹介されれば「どちらの尾崎様ですか」という氏重視の世界。 リベラルな思想の牛場、西園寺たちと異なって、世間知らずの婦人たちには 特にこの傾向が強く、多感な尾崎には我慢ならなかったかもしれない。
9. 拡がる格差と若者の挫折感 維新より続く薩長中心の権力構造、明治大正と続いた近代化での功労者達が 支配する当時の日本は、新参者が成功する土壌が非常に限定されていたといえる。 時代を生きる優秀な若者にとっては、挫折感、絶望感があったに違いない。 牛場たちと知り合った学生時代から、本人では解決の出来ない氏素性の悩みが、 尾崎の深層で葛藤していただろうことは想像に難くない。 初版:2003年6月 改訂版:2013年8月 改訂版:2015年8月 改訂版:2023年7月
(しらす・さぶろう)
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