東京裁判と広田弘毅元首相 昭和23年12月23日は極東軍事裁判(東京裁判)においてA級戦犯の内、7名が処刑された日。 新年を控えたクリスマス近くに、この日をぶつけてきたことは、連合国の嫌がらせといわれています。 東条英機氏など軍人がほとんどであったA級戦犯7名には、ただ一人、外務省出身の広田弘毅氏が加えられていました。 外相を歴任し、総理大臣を務めたとはいえ、当時の氏の役割と思想を知るものにとっては理解できない終末でした。 裁判では、ほとんど弁明らしい弁明をしなかったために、真実はいまだに明らかではありませんが、 責任を自分に集中させて、天皇やその他の民間人への波及を最小限にしたといわれます。 太平洋戦争終結から60年近くなり(2004年現在)、戦時記憶の明確な世代は少数派となりましたが、 当時を知る人々にとって、広田弘毅元首相が処刑されたことと、 それに先立つシズ夫人の自害は、今でも忘れられない衝撃的な事件。 広田弘毅元首相は、出身地の福岡市の偉人として著名ですが、湘南を愛した、戦前湘南文化の発信者でもあります。
広田弘毅首相夫妻の純愛と湘南の鵠沼 シズ夫人が自害されたのは、終戦翌年の昭和21年5月18日、享年62才でした。 弘毅氏が進駐軍に逮捕されたのは、その年の1月. 死を覚悟している夫の意思の固いのを確認した上でした。 結婚後5人の子供を授かっていますが、昭和21年には全ての子供が成人していることもあったでしょう。 首相を引き受けた時点から死と直面し、それを覚悟していた広田氏にとって、夫人との熱愛が 唯一の支えであったことは想像に難くありません。 最も気がかりであろう妻が先立てば、思い残すことはありません。 平和な現代では理解できないほど、混乱期での愛の絆は強いのでしょう。
夫人が自害されたのは、家族とは別に戦中から定住していた湘南地方、鵠沼(藤沢市)の別邸でした。 外交官としてロンドン、北京、モスクワ、原宿、練馬と転居を続けた広田夫妻は、 静かな鵠沼を癒しの地として、最も愛していました。
写真上:海岸はずれの葭簀(よしず)防砂垣が当時の名残り:現在の鵠沼海岸
当時の鵠沼の海岸地帯は、砂浜が現在の数倍も広く、ところどころに昼顔(ひるがお)が群生する砂丘がありました。 他人と顔を合わすことなく散策することができるため、 世事に疲れたエスタブリッシュメントには最適の保養地だったかもしれません。 外交官として欧米を知り尽くしていた広田夫妻は、イギリスの外来文化が持ち込まれた戦前の湘南文化発信者の一人。 広田氏が質素な日本家屋の別邸を賃借したのは、現在は鵠沼松が岡1丁目と命名された地域。 小田急線鵠沼海岸駅と片瀬江ノ島駅の、ほぼ中間地点、鵠沼でも海岸に近いところです。 近くには文人が長期滞在することで有名な東屋(東家)という旅館がありました。 鵠沼雑記という著作もある芥川龍之介が、特に愛した割烹旅館です。
写真上:現在の鵠沼海岸海際は砂丘が一つもない平坦な砂地に変わっている
庶民的な宰相広田弘毅(ひろた こうき) 明治11年2月14日~昭和23年12月23日(1878年-1948年) 広田弘毅氏は九州博多の石材加工業者広田徳平の長男。 福岡市極楽寺町生まれ。 明治維新の功労者が日本のエスタブリッシュメントとして跋扈していた当時では、 数少ない庶民階級の出身。 僅かながら、特に成績優秀な庶民に立身出世の道が開け始めた時代。 修猷館、一高を経て明治38年帝国大学を卒業。 後に外務省に入省。 昭和の激動期、昭和8年(1933年)に外交界の長老、内田康哉から外務大臣を引き継ぐ。 内田康哉は引き受け手が無いために外相に再就任していた。 昭和11年に諸般の状況から、望まぬ首相を引き受けることとなる。 1ヶ月後に任地から急きょ帰国した有田八郎が引き継ぐまで、広田氏は外務大臣を兼務。 首相在任期間、僅かに10ヶ月で日中戦争をめぐる軍との対立で総辞職。 日中戦争賛成派といわれたが真相は定かでない。 辞任後の昭和12年にも近衛内閣の外相に就任した。
夫人:廣田シズ。 明治18年8月21日生まれ。 自由民権運動の志士、月成巧太郎およびヤスの次女。 女子大(今の日本女子大)附属女学校卒業 千代、弘雄、忠雄、正雄、美代、登代の五人を授かる。 広田弘毅氏は、現在でも、世界の政治研究者や第二次大戦の研究者に高く評価されている国際的な政治家。 戦争責任を一身に負った、その勇敢な行為によるものといわれています。 1983年5月13日に、出身地福岡市の大濠公園(おおほり)に立派な銅像が建てられました。
(写真上:第一次広田内閣)
浩浩居(こうこうきょ) 優秀な帝国大学卒業者は政治的な結婚を選択する(させられる)ことが多かった時代ですが、 弘毅氏とシズ氏は純愛で結ばれています。 なれ初めは、広田氏が学生時代に生活の拠点として、博多出身者の友人らと作った 共同住居の浩浩居(こうこうきょ)。 現在の浩浩居は西荻窪にありますが、当時は小石川区戸崎町にありました。 夫妻は結婚披露もここでしています。 当時のエスタブリッシュメントが帝国ホテルや高級料亭で披露宴をしたのに較べ、 広田氏の人柄が偲ばれる選択です。
広田弘毅首相の時代 広田弘毅は外相を歴任した外務省の長老として、内田康哉、芳沢謙吉、吉田茂、有田八郎など外務省の中国通幹部とともに、 中国侵略と米英戦争には終始反対していた(有田八郎談)。 背景は、軍部の若手や世論に、明治維新の功労者たち子孫や財閥が牛耳る政財界に対する不満が鬱積し、 アジア諸国や中国に新天地を求める動きが急速に拡大していた1930年代。 西園寺公爵など元老が試みた、軍の長老による政治も、軍部の派閥争いが絶えない状況では、 軍長老の権威が失せており、元老工作は失敗に終わる。
5.15、226事件などテロが耐えない世相は、首相の引き受け手がいないのが必然の状況であった。 1936年は、中国問題が政治と外交の最大の難事であったたため、外相を歴任し、 中国を知る広田氏が首相を引き受けざるを得なかったことは想像に難くない。 東京裁判では中国への侵略、南京虐殺、太平洋戦争開戦の責任を誰かが取らなければ、責任追及は天皇を始め、 他の政治責任者、外務省関係者や軍人に転移したといわれる。(有田八郎談)。
連合国の戦犯に関する情報収集は内部告発がなければ不可能だった時代。 告発者は外務省内部に詳しい人と推測できるが、どのような日本人だったのか。 広田氏は、省内では庶民的な人柄で人気が高く、対中戦争推進強硬派ではなかった(有田八郎談)。 旧福岡藩士中心の結社、玄洋社員の月成功太郎氏が夫人の父親であったために、右翼思想と邪推されたとも言われる。 玄洋社は頭山満が関係したため右翼政治結社といわれるが、 自由民権運動など革新を訴える結社が正しいとされている(広田弘太郎氏談)。 広田夫妻が愛した湘南の鵠沼(くげぬま)とは 現在の鵠沼、特に鵠沼海岸は、夏ともなれば喧騒と混雑の極みに到達する湘南の中心地として知られていますが、 当時はその名の由来である、数多い池沼と白鷺が特徴的な、静かな平地でした。 鵠沼の地形は引地川、片瀬川に挟まれたミニデルタ様地帯。 古くからの住民は片瀬海岸の龍口寺や腰越寄りの地域、小田急線の本鵠沼から藤沢に至る地域に集中していましたが、 鵠沼の別荘地はこのミニデルタ様地帯内の、海岸線沿いや、小田急線と江ノ島電鉄線(江ノ電)に挟まれた地域に開発されました。 別荘地は広大な黒松林に家屋が点在する人口の少ない地域で、全てが藤沢市鵠沼6123(例)と、 最大4桁の番号のみで表示されていました。 現在の鵠沼には5つの名前が付けられていますが、当時は松が岡、桜が岡などという地域表示はありません。
別荘地域内には、戦後湘南文化を発信した私立学校の湘南学園と湘南白百合学園があります。 大戦後、この二つの学校は、別荘所有者子弟の受け入れ校の機能を果たし、教育思想も特徴的でした。 通学地域は、別荘所有者が定住し始めた、鎌倉、茅ヶ崎、大磯、二宮など湘南地方全域に広がっていました。 玉川学園の伝統を受け継いでいる湘南学園の自由奔放な空気は、進駐軍が持ち込んだアメリカ西海岸の自由な文化と融和して、 川津祐介、平尾昌章、赤木圭一郎など芸能界で活躍した人々や、音楽など芸術分野に数多くの逸材を輩出しています。 *湘南地方には湘南という名前を冠した県立高校の湘南高校があります。 地域的にはデルタの内側に立地しますが、小田急線、東海道線より山側の地域で、藤沢本町といわれる場所です。
(しらす・さぶろう)
現在の江の島(上)、鵠沼海岸は公園整備が進み、昔日の面影はありません. (しらす・さぶろう)
(しらす・さぶろうの湘南文化よもやま話 第2話として2004/12/22に掲載されたものです) 取材先は有田八郎、有田圭輔、広田弘太郎氏。 |