第二次世界大戦前の外務省には支那通(チャイナ・スクール)と呼ばれる大きなグループがあった。 大臣クラスでは内田康哉(うちだやすや)、吉澤謙吉、広田弘毅、吉田茂、有田八郎などが挙げられるが、 中国を良く知るだけに大陸において日本軍中堅将校が暴走することに危惧を抱いていた。 当時の外交は支那問題が最重要といわれただけに、時の総理は支那通を外交の中枢に置いて解決をはかるが、 軍の暴走は止められず、泥沼にはまっていく。
支那通は広田弘毅、吉田茂、有田八郎など湘南に縁が深い人が多い。 というより葉山の天皇、箱根の近衛など、皇族、華族、政財界の重要人物が湘南に縁があったからだろう。
写真上:若き日の吉田茂元総理:駐英大使時代
湘南では鵠沼の広田、大磯の吉田が紹介されることが多いが、今回は有田に焦点をあててみよう。
有田と湘南の縁は広田弘毅が始まり。その後愛娘が広田家の隣に新婚の仮住まい。 大戦後は娘が湘南鵠沼に家を持ったために、たびたび訪れて、たいそう気に入っていたという。 育った佐渡島で親しんだ海が大好きだったのだろう。 終戦に心を砕いた有田の思想の原点には「天皇への敬愛」がある。 外務省職員は国賓の接待、謁見などで皇族と近しいが、 有田も大使、事務次官、外務大臣と地位が上がるにつれ皇族と接する機会が増え、 昭和天皇の人柄に親近感を覚えていた。 皇太子時代の2枚の写真は有田のお宝。
有田の実父、漢方医の山本桂(やまもとかつら)は天皇家と縁が深い。後鳥羽上皇の承久の変(1221年)で 鎌倉幕府執権、北条義時討伐を推進していた順徳天皇は敗戦後、佐渡島に流された。 多数の家臣、陪臣が佐渡へ同行したが、代々、漢方医であった有田の先祖も佐渡に移転する。 そのような、いきさつが天皇への親近感となったのであろう。 佐渡で生涯(1242年)を終えた順徳天皇の御陵は京都大原にあるが、佐渡で仮埋葬され、「真野御陵」として現存する。 墓は宮内庁が管理しているが、山本家は永年、墓守を務めた。
欧米との戦争に反対するも、政権の中枢にいながらも開戦を防ぐことがかなわなかった有田は 、戦火の拡がりとともに天皇が中心人物として戦争に巻き込まれていくことに危機感を抱いていた。 いかにして、おろかな戦争を終結させるか。
写真下は有田の終戦が必要必須とした上奏文(陛下への手紙)
昭和20年7月の有田の天皇への上奏文には臣八郎と記され、天皇を敬愛する心情が溢れている。 「もはや天皇自らの決断なくして終戦は不可能。それを陛下に知ってもらいたい。 日本はこんなことで壊滅してはならない。不滅でなければならない。」 天皇側近の木戸内大臣との度重なる二人だけの面談と上奏文で、 現政権の時局悪化打開策(ソ連、中国共産党の仲介)には成算がなく、 早い講和が必須であることを訴えていた。
これは中国とソ連の情報に詳しい有田ら、外務省の支那通、ソ連通の誰もが感じていたこと。 天皇が裸の王様にならぬよう必死だったのだろう。
有田が亡くなった時(1965年:昭和40年)に昭和天皇は入江侍従長を院使(天皇の勅使)として 下落合の有田邸(写真上)と青松寺(東京港区)に弔問させ、弔意を伝えた。 4度の政権で外務大臣を歴任した重臣だからではない。 昭和初期の激動の時代(Turbulent Era)に共に対処した盟友だったのだろう。
(しらす・さぶろう) (写真は私物です。 転載は厳禁) 悪化する日英関係修復にクレーギー駐日大使と次善策を話し合う(日英経済文化会議)
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